02 - YAML語の住人
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その夜、私はThinkPadを懐に入れて夜の砂漠を歩いていた。熱を放ちきった大地はこごえるほど寒く、生き物は姿をひそめ風さえも吹こうとしない。ただ、亀裂の入った藍色の空に、星々をつなげる光の線がいくつも這っている。遠からず陽は昇るだろう。
「のどが渇いた。水がほしい」私はからからの舌の感触を確かめるように言った。寒さが体温だけでなく水分までも急速に奪っている。
『クラッカーを食べますか?』ThinkPadがそんな私に追い打ちをかけるように、赤いランプを点しながら提案する。「…誰にそんなひどいジョーク学んだの?」私があきれるも、ThinkPadは平然と『相手が困ったとき、さらに困らせることをあなたは言います』と答えた。
さすがは優秀な事務。よく見ている。でもそれは困らせるためじゃなくて冗談っていうんだよ。
ThinkPadは Emacsのチュートリアルをプレイ。 で加わった私のアシスタントだ。ポンコツのEeePCよりも長いバッテリ駆動時間を活かしてここまで連れてきたのだが、残量の限界が近く、ディスプレイを消灯し省エネモードで動いている。太陽が昇る前にこの状況が打開できなければ、私は熱したフライパンと化した大地の上で、物言わぬ金属の塊とともに朽ち果てる。
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視線の先に一台のキャンピングカーが止まっているのが見えた。
「車だ」『蜃気楼です』
「ちょっと、熱くもないのに蜃気楼なわけないでしょ」私は思わず立ち止まって口を尖らせる。『では幻覚です』「その可能性はゼロではないけど、ゼロであってほしい」
車の天井から張られたシートが地面から伸びる棒で支えられ、日陰となった場所にテーブルや椅子も並んでいる。廃棄された車じゃない。助かった。私は車に駆けよった。
「すみません」
声をかけたが返事がない。窓越しに車の中をのぞこうとしたが、暗闇がそれを拒絶する。仕方なく、砂で汚れたボンネットから背後に回った。「誰かいませんか」
いた。ひげが。ものすごいひげに、私は驚いて飛びのいた。
簡素な椅子に一人の男性が腰掛けている。プリングルズのようなものすごい口ひげに、水中ゴーグルのようなダテメガネ。その奥からのぞくつぶらな瞳。そしてデカデカと『T』と刻印されたヘルメット。
一度見たら忘れられない迫力に圧倒されながらも、私は助けを求めた。「すみません、私、ここで…」
あれ?
どうしてここに来たんだっけ?疲れているのか全く思い出せない。
記憶の糸をたどる。キュルキュルと頭のなかで映像が巻き戻り…
全身を激しい衝撃が襲った。「飛行機が砂漠に不時着したんです」
『そんな事実はありません』ThinkPadが即座に否定する。「君は貨物室で寝てたから覚えてないんだよ。EeePCは私と一緒にいて…」
一緒にいて…
『私を頭に乗せろ!早く!』
そうだ。
一緒にいた。だから私は助かった。
『私』は。
「…」
ThinkPadのパームレストにぽたぽたと雫が落ち、あわてて拭いて画面を閉じる。身体のどこにこんなに水分があったのか、地面のシミがみるみる大きくなる。
「それで、遭難して…生きて…生きて帰らなきゃいけない…」言葉を続けようとしたが、しゃくりあげるばかりでしばらく口が動かなかった。
「…」
ようやく我に返った私は、顔をぬぐって謝った。「すみません。急に泣いたりして」
自分の失礼を取り繕うように苦笑いしてしまう。出会ってすぐ泣き出すなんて、私の方が奇妙な人みたいじゃないか。そうして相手を見ると、ものすごいひげの男性は、会ったときと少しも変わらず、つぶらな瞳をまっすぐこちらに向けていた。
私はそこに何か普通でないものを感じた。「あ、あの…」
まるでマネキンのように微動だにしない彼に、私は自分の側が一人なのが急に不安になる。思わずThinkPadの画面を開き、急いで呼びかけた。
「ね、ねえ」『何でしょう』ThinkPadは一瞬だけ空気を吐き出し、答えた。「この人と話したいんだけど、言葉が通じないのかな」
『この人とは?』「私の目の前にいる人だよ」
私はディスプレイを男性に向け、ThinkPadのカメラに収まるように動かす。
「この人と話したいんだけど、私が言うことを翻訳してくれない?」
『翻訳機能は対応していません』ThinkPadが即座に答えた。
「え?」
驚いた。100カ国語以上に対応する翻訳サービスじゃないのか?「どうして」
『私の翻訳機能はYAML語に対応していません』
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